2010年08月24日 火曜日
創立80年を迎える奈良佐保短期大学
本学は、昭和6(1931)年佐保女学院として、当時の女子教育の最高学府、奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)の同窓会の熱き想いで設立されました。昭和6年とは、どんな時代だったのでしょうか。調べてみると、何だか現代を彷彿とさせるようで、世界恐慌の影響が濃く日本経済は不況が深刻化し、輸出激減、賃金切下げ、人員整理、工場争議などが多発し、一方で軍部ファシズムが台頭して9月に満州事変が勃発し、国際的に日本は孤立し、やがて大きな戦争へ突き進んでいくことになります。社会を反映して、前年には小林多喜二の「蟹工船」、映画「大学は出たけれど」、6年に日本初のトーキー(音声)映画「マダムと女房」、宮澤賢治の「雨ニモマケズ...」の詩、流行歌は「酒は涙かため息か」等、暗い谷間に転がり落ちていくのを予感させる時代でした。
けれども、草創期の佐保女学院の生徒は、高等女学校から推薦されて入学したエリートたちが全国から集まり、女高師のキャンパスの中で女高師の教授陣や招聘された一流の講師に学び、のびのびと自由な気風を楽しんでおられたようです。当時の中等教育への進学率は1割にも達せず、高等女学校に進学できたのは、経済的にも裕福な階層のお嬢様に違いありません。女学院の入学検料2円、授業料は毎月5円と記されています。当時の一般的な月収は、その頃トップの婦人雑誌『主婦之友』の家計記事によると、教員や官吏(公務員)、医者、軍人(将校)などは100円以上、工員や商店従業員などいわゆるブルーカラーは80~90円前後と、100円を境にはっきり階層差が見られます。女学院に進学できるのはホワイトカラーの子女であったと推定されます。それは、女高師の生徒が地味色の格子縞柄の着物だったのに比べ、女学院の生徒たちは袂も長めの大柄で明るい花柄を着こなし、質実剛健の気風が漂う女高師のキャンパスに花が咲いたようだったということです。けれども戦争中には女学院の生徒は派手だと注意を受けもしたそうです。
科目は裁縫・料理・作法・茶華道などに重点がおかれていますが、日本料理はもとより西洋料理や中華料理も実習があり、裁縫も和裁のほか洋裁や刺繍・染色など、当時としては先進的だったということです。
(写真・カリキュラムは、「佐保会報」第20号(昭和6年)より)
木村 都
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